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22歳童貞としてのお務めについての及川守男のおことば

適当に生きているだけで22歳には簡単になれた。だが、22歳の大人には、未だになれていない。

 ライトノベルからジブリに至るまで、創作の世界の子供というのは昔から苦手だった。無論キャラクターとして好きになれた登場人物は山ほどいる。けれども、どれも子供として好きになれたことは無かった。どれも、絶対にどこか大人びたものを帯びていた。作り手が大人なのだから仕方ないのは当然だけれども、それが自分と同じ「子ども」であるとは、どうしても認識できなかった。強く意識するようになったのは高校生になってからだと思う。それはある種の不気味の谷のようで、高校が舞台になっているような物語で特にそう感じた。「こんな言動する高校生、いねえよ」なんて。野暮と言えばそれまでだが、シチュエーションとしての高校にセンチメンタリズムを感じることはあっても、それを自分に重ねられることは終ぞなかった。

 恐ろしいのは、それが22歳になった今でも変わらぬことである。未だに俺は、その大人びた子どもの精神性に共感できないで、「本当の子供」の目線から創作物を見、さらには現実を見ている。それが意味するところはすなわち、俺は未だに、高校生のころと変わらぬ精神性を保っているということだ。20なってすぐの頃は、「まるで心のタイムカプセルかシーラカンスみたいだ」などと冗談も言えたが、それから2年経ってもこれだとなると、流石に不安と恐怖は大きくなってくる。未だに自分は、大人が何たるかを知るに至れていない。どころか、大人を取り繕う準備すらできていない。
 
 一体何が大人になるために必要で、俺は一体何が欠けているのだろうか。そんな自問自答も、直ぐに霧散してしまう。怠惰に過ごし続けもう半分を過ぎようとしている夏が、その未熟さを強く反映している。
「恋愛経験の有無なのだろうか」とも考えた。恋をすれば、愛する人が出来れば、変わる者が有るのだろうか。だが鶏と卵のような気もする。子どものままであれば、恋人など出来ず、変われぬままなのではないか。
 
 就活が半年もしない内に本格的に始まる。会社が子供を採用してくれるかどうかは分からない。隣の部屋で、高校生だったころと変わらぬような生活をしている弟は、いつの間にか社会人になっていた。大人になることがどのような変化なのか、俺は未だに掴めずにいる。

 22という数字から連想されるのはたった二つしかない。それは今日という日付それ自体と、世界最強の戦闘機、F-22である。F-22は昔から大好きで、中学生の頃はノートの切れ端によくスケッチを描いていた。エースコンバットというゲームにドはまりした結果だった。周囲がPSPのモンハンばかりやってる中、一人PSP版のエースコンバットをやって周囲から浮いて後に虐められる一因となったくらいだから、半ば逆恨みのようなものでもあるが、因縁がある。だが、人生を動かすほどのものではない。

 歳を重ねる事と経験を重ねることの乖離が日々進んでいる。毎日がどんどんと薄まり、劣化していく。だからといって、大人になることは一般にはそれがさらに進むことだろうし、そういう意味では大人になりたいわけでもない。ただ、周りがそうなるのに自分が置いて行かれることが怖いだけだ。この恐怖もいずれ薄まり、劣化していくことも怖いのかもしれない。適度な恐怖と安定。その均衡が決して安定的ではないことを、理性では理解しているつもりではある。